『初子さん』(赤染晶子)

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 それだけではない。この劇場自体がおかしい。客は鈍い。笑わないし、理解が遅い。目を開けて寝ているのかと思う。もしかしたら放心しているのかとも思う。あの重いドアのせいである。客席の後ろのドアである。この街には昔からぬるま湯が張っている。ぬるま湯は水よりも重い。この湯の中で生きる人は湯の抵抗で動きが緩慢になる。急ぐことができない。それでも、そのぬるさがこの街の心地よさである。このドアは客が入るたびにそのぬるま湯を劇場に入れて、そのまま溜めてしまった。湯は劇場の中で温度も変えずここで重さばかりを増やした。この劇場にはもう天井まで見えないぬるま湯が張っている。ここには音が響くための空気がない。舞台からこのぬるま湯に向けて、どんな言葉を発しても音は消える。劇場の中では何もかも鈍くなる。時間もここでは流れが鈍る。どんな動きもこの湯の中では勢いを失う。浅い呼吸に慣れたこの町の人はすぐにこのぬるま湯に馴染む。鶴子を見て心配してくれる客はまだましである。ほとんどの客がじっと座ったまま何の反応も示さず、ぼんやりと舞台の芸を見つめる。
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『うつつ・うつら』より


 デビュー単行本『うつつ・うつら』(文藝春秋、2007/5)に、「群像」2005年5月号に掲載された『まっ茶小路旅行店』を加えた最新刊。『じゃむパンの日』に続いてpalmbooksから出版された赤染晶子さんの作品集です。京都という土地柄を背景に、短い文を次々と重ねることで、土地や生活に容赦なく追い詰められてゆく焦燥感をたまらない迫力で表現してみせます。特に『うつつ・うつら』が強烈。わけのわからない“現実”にずぶずぶと沈んでゆく人々の姿にいつも戦慄を覚えるのです。何度読んでも圧巻です。もう新作が読めないのは悲しいことですが、ぜひ多くの人が赤染晶子さんの作品を読んでわけのわからないまま追い詰められますようにと、そう願っています。


収録作品
『初子さん』
『うつつ・うつら』
『まっ茶小路旅行店』




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(ああ嫌や)
 初子さんはつくづくそう思う。自分がまだ若いのはわかっているが、もう子供でない以上、どうしようもない。道がまだまだ続くのはわかっているが、引き返せるほどの短い距離を歩いてきたわけではない。無知ゆえに無茶を省みず、無理をし、努力をしてきた。同じ苦労を人生のやり直しのためにもう一度するのは躊躇してしまう。気づくのが遅かったのかと思う。初子さんはうんざりする。結局、今日も明日も日常を繰り返すほかない。それを繰り返すうちに人生は終わってしまうのか。何とかしなければと焦るが、何をどうしていいのかわからない。
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『初子さん』より




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 劇場はそうやって壊れていった。がらくたになった。音や声が物や人からはなれてぬるま湯を浮遊した。パリ千代が鳴くたびに、音や言葉は今までのところからはがれていった。言葉が世界からはがれると、世界は混沌に戻る。言葉を失った世界は闇に還る。人から名前がはがれるとどうなる。もういくつもの言葉をこの劇場で失った人間が名前までなくして、その後、どうなる。鳥かごの中の羽音を聞いて、初めて振り向いたうつつの顔が凍りつく。うつつの大事な名前。その名前をはがされては終わりである。パチ千代が名前を叫んだ途端、名前は音になってぬるま湯の中に葬られる。はがれた名前は手を伸ばしてももう届かない。名前を失った人は死ぬしかない。
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『うつつ・うつら』より




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 砂漠の向こうに海が見える。鷹井さんの青い海が遠くにある。咲嬉子はいつもの砂の熱さを思い出す。どうすればいい。足の裏のこの痛い熱さをどうすればいい。歩く。「おおきに」と力なく立ち上がって、肩を落とし、とぼとぼと歩いていった鷹井さんの後ろ姿を思い出す。咲嬉子は歩く。わたしはサボテンではない。わたしは動く。わたしは目指す。わたしは近づく。青い海は消えない。目の前に広がる。これを見た。これと同じ青い海をあのとき店の床に見た。どんなに瞬きしても、この景色は嘘ではない。ここに海がある。咲嬉子は海に入る。全身に澄んだ水が染み渡る。足の裏の熱が静かに消えていく。ずっとこの海がほしかった。この海がいつもの景色の中に必要だった。この海がなければ、からからに乾いてどこかに飛んでいってしまう。何もない砂漠に赤いかんざしだけが残る。
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『まっ茶小路旅行店』より




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