『俺の文章修行』(町田康)
――――
つまり人生が一瞬で決まるのと同様に文章も一瞬で決まる。それ故、一瞬たりとも弛緩したらあかぬのだ。
――――
単行本p.237
よい文章を書きたい、文章力を高めるにはどうすればよいのか。この問いに町田康が大真面目に答える一冊です。
まあそうはいっても、まずは読め、ということになるわけで。前半は自身の読書体験を紹介しつつ読むことを教えてくれます。
――――
俺はそのとき初めて、胸のすくような楽居や本地タレ吉なる痴れ者が箇条書きにする再読術の骨子を読む以外の本の読み方を知ったということで、それこそが、その語彙の向こう側に広がる世界、作者がその言葉をそこに置くとき作者の胸の内にあったこと、ひとりの人間とその言葉の距離を知ることだった。
それによって言葉が自分のなかに組み込まれ、他の言葉や自分以外の人間、即ち世界の広がりに接続されて、自在自由にその言葉を使えるようになる。これが見聞きしたものを文章に置き換える変換装置の本然で、再読をする度、知らない、自分でも気がつかないうちに、言葉が自分のなかに組み込まれていき、装置の性能は自分の肉体が消滅するまで向上し続けるのである。
そのための再読をするためには、わからないものを読むとよい、ということは右に申しあげた。そして。
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単行本p.54
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「文章書きは読まにゃあかん。血ヘド吐くまで読め」「これ以上、読んだら死にます」「じゃあ死ね」という訳である。
と言ったら反発を買うだろう。そんなものは昭和の観念だ、と批判する人もあるかも知れない。だけど大丈夫だ。なんらの問題もない。なぜなら死ぬほど走ったら或いは本当に死んでしまうかも知れないが、死ぬほど本を読んでも絶対に死なないからである。
――――
単行本p.106
死ぬほど読んだら、さあ、次はちゃんと読め。
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そんな説明の文章のなかにもな、そいつが、そいつの文体感覚が、人間感覚が、世界感覚が、苛烈に浮かび上がってくるんだよ。そして俺らはそれを感知・感得してその全体を読み取っているんだよ。山尾よ、おまえは本物のAmazonから来たメールと詐欺のAmazonのメールを弁別できるだろ。同じことだよ。だけどな、騙されることもあるだろ。その時、詐欺が巧妙なのではないんだよ。山尾、おまえの感知・感得力が弱体化しているんだよ。なんで弱体化するかわかるか。
「意味だけで十分だ。とか言ってクソ文章書いてるからに決まってるだろ」
だから形式と(偽のクソ)正義によって書かれたものを読んで感泣しているのであるのだ。そうならないために、ではどうすればよいのか。
――――
単行本p.184
そして書け。
――――
即ち、糸クズのような困難、それは元来、自分の外に出ることができず、既存既成の麻酔剤を打って誤魔化すしかないのだが、それをせず、それを直視してそれより出発して書かれた文章を外に出すことにより、自分の内臓を見ることができないように、見ることができなかった自分の魂が、此の世にあるその様を見て救われ、それにより他が救われるところを見て、また救われる、または報われる、ということである。
それが則ち書いて意味のある文章ということで、「この餓鬼、急になにを大層な御託ぬかしてけつかんねん」と思し召すなれば、救われる、というところを、気が楽になる、に読み替えると好いでしょう。
つまり、上手な文章とは右記のようなことができているか否か、ということで、それ則ち、内容があるか/ないか、ということであり、ただ単に小巧い文章のことを指しているのではないのですよ。そして明確に申しあげるが、俺もそれを目指しているのであって、できている立場からでけてへん奴に教えているのではなく、これも亦、そういうことを目指した文章であるという事を申しあげておく。
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単行本p.220
――――
だけどな、人を救うという事は、その救うた人に嗤われ、誰からも理解されないまま惨めに滅んでいくことで、やっていると多分ムカつくこともあるし、最近、野菜不足気味だな、と思うことも屹度あるにちがいなく、それもまた糸クズなんだよ、という事を俺はさっきから言うテイル。つまり。
内容とは、そいつそのもの、文章とはそいつそのものちゅうこっちょ。どうあがいたっての。だから俺がこれまで示してきたのは、自分そのものの文章に辿り着く道のりちゅうこっちょ。人間は自分の顔を自分で見ることが出来ない。だけど変換装置を使い、いけずを行い、糸クズが蠢いて文章が駆動すれば、そこに立ち現れる世界は、自分が映した世界ではあるが、間違いなくそこに自分も映っているのである。
だから言うな。「ちゅうこっちょ、ってなんや?」と言うな。
――――
単行本p.259
というわけで「ボクの読書歴」「伝わる文章の書き方」みたいな気楽に読める本を期待して開くと急所に渾身の一撃をくらいます。随所にくすぐりを入れつつも真剣に文学について語る本。実のところパワー負けして何をいってるのかよく分からずぽかーんとしたまま押し切られる箇所も多いというかそれが大半というか若干困惑気味なのですが、みなさんはどうか気合を入れて読んでください。私も再読します。
――――
俺の文章が読みにくい、と言い、俺を気の毒な人を見るような目で見る仁がある。嘲笑する仁もおらっしゃる。だけどな、おまえらな、俺がわかりやすい文章を書かれへんと思うテイルお前らの方が気の毒やと俺は思う。
云いたいことを箇条書きにして文章を生成させる。ええやないか、えやないか。それで伝わるわいな。そうしたら個人小説家を株式化して売買、それで金を稼ぐことができるようになるだろう。だけどな、その時にできないことがひとつある。それが今、申しあげた「読み書き表裏一体姿勢」なんだよ。なぜならそれは「姿勢」であって「技法」ではないから。「姿勢」を取ることができるのはいずれ死んで此の世からいなくなる者のみだから。うくく。
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単行本p.259
つまり人生が一瞬で決まるのと同様に文章も一瞬で決まる。それ故、一瞬たりとも弛緩したらあかぬのだ。
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単行本p.237
よい文章を書きたい、文章力を高めるにはどうすればよいのか。この問いに町田康が大真面目に答える一冊です。
まあそうはいっても、まずは読め、ということになるわけで。前半は自身の読書体験を紹介しつつ読むことを教えてくれます。
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俺はそのとき初めて、胸のすくような楽居や本地タレ吉なる痴れ者が箇条書きにする再読術の骨子を読む以外の本の読み方を知ったということで、それこそが、その語彙の向こう側に広がる世界、作者がその言葉をそこに置くとき作者の胸の内にあったこと、ひとりの人間とその言葉の距離を知ることだった。
それによって言葉が自分のなかに組み込まれ、他の言葉や自分以外の人間、即ち世界の広がりに接続されて、自在自由にその言葉を使えるようになる。これが見聞きしたものを文章に置き換える変換装置の本然で、再読をする度、知らない、自分でも気がつかないうちに、言葉が自分のなかに組み込まれていき、装置の性能は自分の肉体が消滅するまで向上し続けるのである。
そのための再読をするためには、わからないものを読むとよい、ということは右に申しあげた。そして。
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単行本p.54
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「文章書きは読まにゃあかん。血ヘド吐くまで読め」「これ以上、読んだら死にます」「じゃあ死ね」という訳である。
と言ったら反発を買うだろう。そんなものは昭和の観念だ、と批判する人もあるかも知れない。だけど大丈夫だ。なんらの問題もない。なぜなら死ぬほど走ったら或いは本当に死んでしまうかも知れないが、死ぬほど本を読んでも絶対に死なないからである。
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単行本p.106
死ぬほど読んだら、さあ、次はちゃんと読め。
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そんな説明の文章のなかにもな、そいつが、そいつの文体感覚が、人間感覚が、世界感覚が、苛烈に浮かび上がってくるんだよ。そして俺らはそれを感知・感得してその全体を読み取っているんだよ。山尾よ、おまえは本物のAmazonから来たメールと詐欺のAmazonのメールを弁別できるだろ。同じことだよ。だけどな、騙されることもあるだろ。その時、詐欺が巧妙なのではないんだよ。山尾、おまえの感知・感得力が弱体化しているんだよ。なんで弱体化するかわかるか。
「意味だけで十分だ。とか言ってクソ文章書いてるからに決まってるだろ」
だから形式と(偽のクソ)正義によって書かれたものを読んで感泣しているのであるのだ。そうならないために、ではどうすればよいのか。
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単行本p.184
そして書け。
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即ち、糸クズのような困難、それは元来、自分の外に出ることができず、既存既成の麻酔剤を打って誤魔化すしかないのだが、それをせず、それを直視してそれより出発して書かれた文章を外に出すことにより、自分の内臓を見ることができないように、見ることができなかった自分の魂が、此の世にあるその様を見て救われ、それにより他が救われるところを見て、また救われる、または報われる、ということである。
それが則ち書いて意味のある文章ということで、「この餓鬼、急になにを大層な御託ぬかしてけつかんねん」と思し召すなれば、救われる、というところを、気が楽になる、に読み替えると好いでしょう。
つまり、上手な文章とは右記のようなことができているか否か、ということで、それ則ち、内容があるか/ないか、ということであり、ただ単に小巧い文章のことを指しているのではないのですよ。そして明確に申しあげるが、俺もそれを目指しているのであって、できている立場からでけてへん奴に教えているのではなく、これも亦、そういうことを目指した文章であるという事を申しあげておく。
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単行本p.220
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だけどな、人を救うという事は、その救うた人に嗤われ、誰からも理解されないまま惨めに滅んでいくことで、やっていると多分ムカつくこともあるし、最近、野菜不足気味だな、と思うことも屹度あるにちがいなく、それもまた糸クズなんだよ、という事を俺はさっきから言うテイル。つまり。
内容とは、そいつそのもの、文章とはそいつそのものちゅうこっちょ。どうあがいたっての。だから俺がこれまで示してきたのは、自分そのものの文章に辿り着く道のりちゅうこっちょ。人間は自分の顔を自分で見ることが出来ない。だけど変換装置を使い、いけずを行い、糸クズが蠢いて文章が駆動すれば、そこに立ち現れる世界は、自分が映した世界ではあるが、間違いなくそこに自分も映っているのである。
だから言うな。「ちゅうこっちょ、ってなんや?」と言うな。
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単行本p.259
というわけで「ボクの読書歴」「伝わる文章の書き方」みたいな気楽に読める本を期待して開くと急所に渾身の一撃をくらいます。随所にくすぐりを入れつつも真剣に文学について語る本。実のところパワー負けして何をいってるのかよく分からずぽかーんとしたまま押し切られる箇所も多いというかそれが大半というか若干困惑気味なのですが、みなさんはどうか気合を入れて読んでください。私も再読します。
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俺の文章が読みにくい、と言い、俺を気の毒な人を見るような目で見る仁がある。嘲笑する仁もおらっしゃる。だけどな、おまえらな、俺がわかりやすい文章を書かれへんと思うテイルお前らの方が気の毒やと俺は思う。
云いたいことを箇条書きにして文章を生成させる。ええやないか、えやないか。それで伝わるわいな。そうしたら個人小説家を株式化して売買、それで金を稼ぐことができるようになるだろう。だけどな、その時にできないことがひとつある。それが今、申しあげた「読み書き表裏一体姿勢」なんだよ。なぜならそれは「姿勢」であって「技法」ではないから。「姿勢」を取ることができるのはいずれ死んで此の世からいなくなる者のみだから。うくく。
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単行本p.259
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