『待つ人々』(ダンサーがいないダンス No.1)(勅使川原三郎、佐東利穂子)
――
ダンス作品はダンサー無しでも有り得るのではないかと私は長年考えていました。
実際の存在が見えないダンスが現れる作品を。
身体の無い身体的空間は、音楽、照明、言葉が絡み合い作る時間の揺れや動き。実在するダンサー無しでも、いやダンサー無しだからこそ、この表現が不可能ではないはずだと考えました。ダンスが起こりうる、ダンスが有りうる空間は、正に時間感覚が空疎であればこそ空想が生まれる。私はそれを信じています。(中略)言葉と照明と音楽が、構成する「時間」と「空間」から「見えない動き」が見えてきて、聴こえてきて、感じていただけたら、それがダンス、そう私は考えます。
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勅使川原三郎
2025年2月21日は、夫婦でKARAS APPARATUSに行って勅使川原三郎さんが挑む新しいシリーズ『ダンサーがいないダンス』の第1作品を鑑賞しました。勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんが欧州で公演しているなか、こちらでは照明と音楽と朗読だけで「ダンス公演」を実現させてみせようという挑戦です。
リルケ『白』(朗読:佐東利穂子)
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(朗読:勅使川原三郎)
夏目漱石『夢十夜』より第一夜(朗読:佐東利穂子)
上演時間ほぼすべて出演者たちが床に倒れて動かないダンス公演とか、照明と音楽だけの無人のステージを見守るダンス公演とか、過去にも色々と体験したことはありますが、いずれも風刺・問題提起・挑発、といった狙いがありましたし、さらには事前にそういう演出であることを伏せておき不意打ちを狙ってきました。しかし今回の新シリーズはストレートに「ダンサーが不在でもダンス公演は成立する」という勅使川原三郎さんの考えを形にしたもので、最初から出演者がいないことは明言されています。ダンス公演が成立するか否かより、もしやKARAS APPARATUSの経済状況は苦しいのだろうか、勅使川原さん佐東さん抜きでも客は来るのだろうか、いつもの終演後の挨拶はないのだろうか、などもっと世俗的な疑問を持ちましたが。
『ゴドー』と『夢十夜』の朗読は過去のアップデイトダンス公演で使われた音源の再使用ですが、リルケ『白』はおそらく初めての録音だと思われます。「暗闇でマッチをする音がした」と朗読がいうと薄暗いステージの奥におぼろげな光が現れる、という具合に非常に分かりやすい演出で、劇的に進んでゆきます。作中の舞台も実際のステージも暗いので、誰かがそこにいて動作していると想像するのはたやすい。冒頭に置かれたこの作品でぐっと引きこまれます。『ゴドー』は二脚の長椅子を立てただけのステージで照明によって二人が会話している様子を表現してゆきます。『夢十夜』も照明によって床や空を表現し、そこにはいない死にゆく女や白百合の花を想像させる演出。ダンス公演かどうかはさておき、何も無いステージに白昼夢のように幻を見るという体験は確かに劇場で体験する価値があります。
ダンス作品はダンサー無しでも有り得るのではないかと私は長年考えていました。
実際の存在が見えないダンスが現れる作品を。
身体の無い身体的空間は、音楽、照明、言葉が絡み合い作る時間の揺れや動き。実在するダンサー無しでも、いやダンサー無しだからこそ、この表現が不可能ではないはずだと考えました。ダンスが起こりうる、ダンスが有りうる空間は、正に時間感覚が空疎であればこそ空想が生まれる。私はそれを信じています。(中略)言葉と照明と音楽が、構成する「時間」と「空間」から「見えない動き」が見えてきて、聴こえてきて、感じていただけたら、それがダンス、そう私は考えます。
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勅使川原三郎
2025年2月21日は、夫婦でKARAS APPARATUSに行って勅使川原三郎さんが挑む新しいシリーズ『ダンサーがいないダンス』の第1作品を鑑賞しました。勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんが欧州で公演しているなか、こちらでは照明と音楽と朗読だけで「ダンス公演」を実現させてみせようという挑戦です。
リルケ『白』(朗読:佐東利穂子)
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(朗読:勅使川原三郎)
夏目漱石『夢十夜』より第一夜(朗読:佐東利穂子)
上演時間ほぼすべて出演者たちが床に倒れて動かないダンス公演とか、照明と音楽だけの無人のステージを見守るダンス公演とか、過去にも色々と体験したことはありますが、いずれも風刺・問題提起・挑発、といった狙いがありましたし、さらには事前にそういう演出であることを伏せておき不意打ちを狙ってきました。しかし今回の新シリーズはストレートに「ダンサーが不在でもダンス公演は成立する」という勅使川原三郎さんの考えを形にしたもので、最初から出演者がいないことは明言されています。ダンス公演が成立するか否かより、もしやKARAS APPARATUSの経済状況は苦しいのだろうか、勅使川原さん佐東さん抜きでも客は来るのだろうか、いつもの終演後の挨拶はないのだろうか、などもっと世俗的な疑問を持ちましたが。
『ゴドー』と『夢十夜』の朗読は過去のアップデイトダンス公演で使われた音源の再使用ですが、リルケ『白』はおそらく初めての録音だと思われます。「暗闇でマッチをする音がした」と朗読がいうと薄暗いステージの奥におぼろげな光が現れる、という具合に非常に分かりやすい演出で、劇的に進んでゆきます。作中の舞台も実際のステージも暗いので、誰かがそこにいて動作していると想像するのはたやすい。冒頭に置かれたこの作品でぐっと引きこまれます。『ゴドー』は二脚の長椅子を立てただけのステージで照明によって二人が会話している様子を表現してゆきます。『夢十夜』も照明によって床や空を表現し、そこにはいない死にゆく女や白百合の花を想像させる演出。ダンス公演かどうかはさておき、何も無いステージに白昼夢のように幻を見るという体験は確かに劇場で体験する価値があります。
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